2018.08.02
連載阿部吾郎の日本撮影スポット巡り
【滋賀県・長浜市】手つかずのまま残る小谷城跡で戦国時代に思いを馳せる
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小谷城といえば、浅井長政や浅井三姉妹、羽柴秀吉などの名前が浮かんでくると思うが、歴史的な詳細は他に譲るとして、写真でこの城跡の魅力をお伝えして行こうと思う。
とはいえ、あらかじめ言っておくが、そんな派手な写真は登場しない。ここは、文字通り”城跡”であり、全く建物は残っておらず、鉄筋コンクリートの天守が再現されているということもない。しかし、逆に言うと織田の軍勢に滅ぼされ廃城になってから、そのままの状態で残されているというのはある意味貴重である。当時の様子をイメージしやすい看板が設置されており、これと現在の状態を見比べていくと、なんとなく当時の姿が脳裏に浮かびあがってくる。そんな楽しみ方ができる場所である。
今回は、あまり時間がなかったので小谷城跡のすべてを見て回ったわけではない。上の地図で見ると、「番所」まで車で行き、そこから「本丸」までを往復したのみだが、これだけでも十分歴史の舞台を楽しむことができた。
こちらが番所跡で、ここまで車で来られるが、駐車スペースは少し手前にあり、そこに停めて10分ほど舗装された坂道を登る必要がある。
番所跡から少し登ると「虎御前山展望所」に到着する。前方に見えるのが織田の軍勢が陣を敷いたという虎御前山だ。
さて、ここで現地に設置されている看板のひとつをご覧いただきたい。虎御前山展望所のすぐ上が、この看板の一番下の方に記されている「お茶屋」である。一番上の「黒金門」を抜けると大広間、本丸である。
この図は立体的に描かれており、当時の様子がよくわかる。この図を目に焼き付けたうえで、以下の写真をご覧いただきたい。当時の様子を想像することができる。
こちらが「お茶屋」跡。番所のすぐ上にあり、主郭の最先端にある曲輪。お茶屋という名前だが、実際は軍事施設である。
お茶屋の上にあるのが御馬屋で、当時三方を土塀に囲まれていたという。本丸を守るための曲輪。
大広間のすぐ下にあった「桜馬場」跡。前掲の図の上の方にある細長い曲輪である。
前掲の図で、桜馬場のすぐ横にある「首据石」。敵に内通した家臣の首を、この石の上にさらしたという逸話がある。
そして、これが黒金門跡である。大広間と主郭の間にあった重要な門である。
改めて、前掲の図とこれらの写真を見比べていただくと主郭の全体像がはっきりしてくると思う。
続いて、本丸と大広間の図がこちら。先ほどと同じように、この図を目に焼き付けた上で、以下の写真を見ていただきたい。
さすがに大広間跡である、これまでの曲輪とは広さが違う。こんな山の中に、これだけのスペースが切り開かれているのはすごいことだ。
大広間跡の一番奥にこんもりとした丘のようなものが見える。近寄ってみると石垣が残されている。これが本丸跡だ。
本丸に登ってみる前に、本丸跡の丘に沿って裏手の方に回ってみる。
すると「大堀切」に出る。尾根を削って造られた堀の後で、本丸とその上を区切るために造られたものだ。
この上に中丸、小丸、京極丸と続くが、今回はこの先には行かなかった。
本丸跡の正面に戻り、登ってみた。当時本丸御殿があったはずの場所は木々に覆われていた。
本丸跡の丘から大広間跡を見下ろした風景がこちら。ここに、大広間の建物が立ち並んでいるのを見たら、さぞかし壮観であったろうと思う。
麓から曲がりくねった道を車で登ること15分ぐらいで駐車場に到着、そこから30分ほど登ると本丸に着く。こんな不便な場所に殿様や家臣をはじめ、多くの人々が住んでいた考えると驚きである。
何も再建されていない、一見地味な城跡だが、戦国ロマンを掻き立てるには十分すぎるほどのものが揃った史跡である。
撮影スポット情報
びわこビジターズビューロー ガイドページ
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写真家情報
阿部吾郎詳細
得意分野 | 風景 | 拠点 | 11埼玉県 | 所属団体 | 日本旅行写真家協会 |
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分類 | プロカメラマン |
トラベルガイド株式会社代表・ツアープランナー・カメラマン・ライター
旅行会社で20数年勤務したのち起業。マレーシアの旅行情報サイト「トラベルガイドマレーシア」を運営、自ら写真撮影・文章執筆を行う。カメラマンとしてアジアを中心に撮影を行い、旅行会社を中心に画像素材を提供。