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2019.06.17

連載赤穂市の観光・撮影スポット

赤穂市の観光・撮影スポット No.1 ー赤穂城と赤穂浪士ー

赤穂市の観光・撮影スポット No.1

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  • 赤穂市の観光・撮影スポット

これから3回にわたって赤穂市の主要な観光・撮影スポットをご紹介してまいります。今年の5月20日「日本第一の塩を産したまち 播州赤穂」が日本遺産に認定されました。その構成文化財となってるものもたくさん出てまいります。赤穂市の様々な風景をじっくりお楽しみください。1回目は赤穂浪士にまつわるスポットを中心にご紹介してまいります。

やはり、スタートは赤穂城跡からまいりましょう。大石神社はじめ、周辺のスポットもご紹介します。

【赤穂城跡】
赤穂城は、浅野長直によって慶安元年(1648年)から13年をかけて築城されました。藩の家臣で甲州流軍学の師範・近藤三郎左衛門が設計、一部二之丸門虎口の縄張りは、当時の著名な軍学者・山鹿素行が手を加えたと伝わっています。

徳川幕府が始まって約50年後に築かれたにも関わらず、軍学に従って築かれた赤穂城は、実践的な戦を強く意識した構造になっていました。また、本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。城の南側は瀬戸内海に面し、船が出入りできるようになっていました。

浅野家断絶後は、永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃城令により、建物は破却され石垣と堀だけになっていましたが、昭和になってから復元が始まりました。昭和46年に国史跡指定を受け、平成14年本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定されました。平成18年には、「日本100名城」にも選ばれています。もちろん、日本遺産の構成文化財でもあります。

≪本丸門≫
本丸門は、廃城後に取り壊されていましたが、発掘調査や様々な資料をもとに平成4~8年(1992~1996)にかけて復元されました。 お堀にかかる橋から続く「高麗門」と門の上に建物がのる「櫓門」の2つの門で構成されています。

2つの門の間には、長方形の枡形(「枡形」とは、石垣や土塀によって方形の空間を作り出したもので、進入してきた敵兵に備えての防御施設)があります。

≪城壁西南角からの眺め≫
城壁に登ることは禁じられていますが、今回特別な許可をいただき城壁の西南の角から本丸内及び元禄花見広場を撮影させていただきました。

≪天守台≫
赤穂城では、築城当初から天守は建造されていませんでしたが、高さは9mの立派な天守台の石垣が築かれていました。天守台の上からは本丸内や赤穂の風景が見渡せます。こちらは、自由に登ることができます。

≪本丸厩口(うまやぐち)門≫
浅野家時代は厩口門、森家時代は台所門と呼ばれていました。平成13年(2001年)に門、橋、土塀や周辺の石垣が整備されました。

≪刎橋(はねばし)門付近の石垣≫
赤穂城の石垣の美しさを見るなら、厩口門から出て時計回りに城壁沿いを歩き、東南角から刎橋門のあたりに行ってみてください。

≪元禄花見広場≫
二之丸南西部にあり、発掘調査で池泉が発見され復元されました。周囲に多種類の桜が植えられ、市民の憩いの場になっています。

≪水手門≫
二之丸の南端にあり、海もしくは干潟に面した門です。「船着き場の雁木」や「突堤(波止場)」が復元されています。ここから搬入された物資は、二の丸の蔵に蓄えられました。

≪二の丸庭園≫
江戸時代初期に造られたと推定される庭園で平成10~13年(1998~2001)にかけて全面発掘調査が行われました。

本丸門前の大石頼母助屋敷南面から二之丸西仕切に至り、大規模な池泉「錦帯池」をもつ池泉回遊式庭園です。池の下流部は舟遊びができるほどの水深がありました。

平成14年(2002年)には、本丸庭園とともに「旧赤穂城庭園」として国名勝指定を受けました。

≪大手隅櫓と三の丸大手門≫
「三の丸大手門」は、赤穂城の玄関口です。二つの虎口(出入口のこと)「高麗門」と「櫓門」で構成されていました。明治初期に門は取り壊されましたが、高麗門と大手隅櫓が昭和30年に復原されました。

「大手隅櫓」は、大手門の北にある二重櫓で、大手門の防御の要でした。高麗門をくぐると「枡形」があります(「枡形」とは、石垣や土塀によって方形の空間を作り出したもので、進入してきた敵兵に備えての防御施設)。

隅櫓、高麗門、お濠と橋が見えるポイントが定番の撮影スポットになっています。記念撮影にも最適の場所です。

【近藤源八宅跡長屋門】
赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門の息子、近藤源八正憲の屋敷の長屋門。「源八長屋」と呼ばれています。

間口33間(約66m)、奥行き31間(約62m)の広大な屋敷でしたが、現在は道路に面した長屋門の長屋部分のみです。近藤源八は、甲州流軍学を修め、赤穂藩の重職にありました。

城内に残されている江戸時代の建築物は近藤源八宅跡長屋門と大石良雄宅跡長屋門のみで、江戸赤穂市指定文化財(建造物)に指定されています。

【大石神社】
赤穂大石神社は、赤穂城跡(三の丸)の敷地内にあります。大正元年(1912年)に大石内蔵助をはじめ四十七義士、萱野三平などを主神とし、浅野家三代の城主、その後の藩主森家の先祖七代の武将を合祀して創建されました。

表門に続く正面の参道の両脇には、討ち入り姿の四十七義士の石像が並んでいます。神社境内に向かって右が表門隊で大石内蔵助以下、二十三体。左が裏門隊で大石主税以下、二十四体です。 

表門は「義芳門」と呼ばれ、神戸市の湊川神社にあった神門を昭和17年(1942年)に移築したものです。境内には、裃姿の大石内蔵助の銅像があります。御利益は、ご祭神が主君の仇討という大願をはたしたことから「大願成就」「願望成就」です。

【大石良雄宅跡長屋門】
大石家三代が57年にわたり住んでいたとされる大石屋敷。屋敷は間口28間(約42m)、奥行45間(約90m)、畳数にして308畳、池泉回遊式庭園も備えている広大な邸宅でした。享保14年(1729年)、火災によって建物の大半が失われましたが、長屋門だけが焼失を免れました。長屋門は、門口26.8m、奥行き4.8mの建物で、城内に残る数少ない江戸時代の建築物です。

江戸城で起こった刃傷事件の凶報を伝える早水藤左衛門と萱野三平の早駕籠がこの門をくぐったという逸話が残っています。大石良雄宅跡は大正12年(1923年)国の史跡に指定されています。

この長屋門は閉鎖されており、ここからは中に入れません。大石神社の境内に入口があります(有料)。長屋門の内側には、大石内蔵助の家族の様子や、江戸から到着した藤左衛門と三平が、刃傷事件の悲報を大石父子に伝える場面が等身大の人形を使って再現されています。

庭園は、瓢箪池を含む池泉回遊式庭園となっており、池の向こう岸には樹齢340年の御神木「大楠」が聳えています。

【赤穂市立歴史博物館】
赤穂城の米蔵があった場所に建っており、西側の外観は5連の白壁土蔵の米蔵を再現したものになっています。

愛称を「塩と義士の館」といい、常設展示のテーマは「赤穂の塩」「赤穂の城と城下町」「赤穂義士」「旧赤穂上水道」の4つです。「赤穂の塩」のコーナーでは貴重な国指定重要有形民俗文化財の製塩用具などを 展示、「赤穂義士」コーナーには映像室“赤穂義士シアター“もあります。

【花岳寺】
花岳寺は、赤穂市加里屋にある曹洞宗の寺院で山号は台雲山(たいうんざん)といいます。

正保2年(1645年)、常陸国笠間藩より転封となった赤穂藩祖・浅野長直により浅野家の菩提寺として建立されました。浅野家の後の永井家、森家の歴代藩主の菩提寺でもあります。境内には、大石内蔵助の祖先の大石家墓所・義士墓所・宝物館・義士木像堂などがあり、赤穂義士ゆかりの史跡です。「新西国第31番霊場」「瀬戸内観音第7番霊場」 に指定されています。

≪山門≫
赤穂城の塩屋惣門を明治6年に花岳寺二十一代仙珪和尚が購入移築したものです。赤穂市文化財に指定されています。

≪本堂≫
本堂入口の白い垂れ幕には2つの家紋があります。向かって右が浅野家の「違い鷹の羽(ちがいたかのは)」、左が大石家の家紋「二つ巴(ふたつともえ)」です。

本堂に入って天井を見上げると、天井一面に迫力ある「竹に虎」の墨絵があります。作者は赤穂出身の画家・法橋義信(ほっきょうよしのぶ)という人で、江戸時代の終わりごろに端午の節句の幟(のぼり)として描かれたものです。

≪二代目大石なごりの松≫
花岳寺山門をくぐると、正面に立派な松の木があります。「二代目大石なごりの松」です。

「一代目」の松は、樹齢310年天然記念物に指定されるほどの名松でしたが、昭和2年(1927年)松くい虫によって2本とも枯死してしまいました。現在は、切り株になって千手堂(休憩所)に保存されています。切り株になってもその幹の太さから立派な松の木であったことが想像できます。大石内蔵助の母・松樹院が亡くなった時に、内蔵助が母の冥福を祈るために植えたものです。

それからちょうど10年後、江戸城刃傷事件がおこり浅野内匠頭は切腹、その後浅野家は断絶となります。赤穂から立ち退く時、内蔵助は大石家先祖のお墓参りをし、この松のもと名残を惜みつつ旅立ちました。その後「大石手植えの松」「大石なごりの松」と呼ばれるようになりました。

≪鐘楼(鳴らずの鐘)≫
この鐘は赤穂二代藩主・浅野長友が父・長直のために奉納したものでした。元禄15年12月14日(1703年1月30日)大石内蔵助良雄以下赤穂浪士四十七士名は吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たします。その後幕命により切腹しました。「赤穂義士四十六士が切腹」の知らせが赤穂に届いたとき、町民がその死を悼みこの鐘を撞きまくったため、鳴らなくなってしまい「鳴らずの鐘」と言われるようになったそうです。

≪忠義塚・忠義桜・不忠柳≫
赤穂義士50回忌に、「忠義塚」が建立されました。大石主税と幼な友達であった龍野の藩儒・藤江熊陽(ふじえゆうよう)の撰による碑文が刻まれています。

「忠義桜」は、大石内蔵助の庭にあった桜を移植したものです。「不忠柳」は、討ち入り前に逐電した家老・大野九郎兵衛の屋敷から移植したと伝えられています。

≪義士墓所≫
元文4年(1739年)、赤穂義士37回忌に建てられました。墓には遺髪が納められていると伝わっています。

中央に浅野内匠頭、左右に大石内蔵助と息子の大石主税、それを取り囲むようにコの字型に四十五士の墓が並んでいます。義士の法名の頭字には「刃」の文字がついています。しかし、切腹をしていない寺坂吉右衛門には「刃」の文字はありません。

【旧備前街道】
旧備前街道は赤穂城下から西の備前国(現在の岡山県)に続く道です。街道が通る塩屋地区は古代より塩作りが行われていました。街道沿いには塩作りで栄えていた往時を思わせる街並みが残っています。

【息継ぎ井戸】
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松の廊下で赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけるという刃傷事件が起こりました。事件の第一報を伝えるため、その日の夕刻に赤穂藩士、早水藤左衛門、萱野三平の二名が早駕籠で江戸を出発しました。

江戸から赤穂までは170里(約680km)。通常17~18日かかる道のりを早駕籠を乗り継ぎ、四日半という速さで3月19日の早朝赤穂城下に到着しました。駕籠に揺られ続けた二人がこの井戸の水を飲み、一息ついて城内の大石内蔵助邸へ急いだといわれています。以来、息継ぎ井戸を呼ばれています。

【義士あんどん】
からくり時計「義士あんどん」は、高さ約4メートル、底辺1・6メートル四方の行灯型で、台座の三方には歌川国貞の義士浮世絵があしらわれています。午前9時~午後8時の毎正時に陣太鼓の音とともに浅野家と大石家の門が入った扉が開きます。音楽とナレーションが流れ、からくり人形が「松の廊下」「はやかご」「永代橋の勝ちどき」の忠臣蔵3場面を再現します。その途中で時計部がせり上がり、采配を振る大石内蔵助の人形が登場します。 1回約3分ほどです。からくり時計は息継ぎ井戸の横にあります。

【東御崎公園】
瀬戸内海国立公園内にあり、展望台からは青い空、波静かな海、沖に浮かぶ島々という瀬戸内海らしい景色を一望できます。公園の中には、大石内蔵助・旅立ちの像があります。春は、桜と海のコントラストが美しい人気のお花見スポットです。

*撮影:トラベルガイド株式会社 阿部吾郎

撮影スポット情報

赤穂観光協会ホームページ

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写真家情報

一般社団法人 赤穂観光協会詳細

得意分野 風景 拠点 28兵庫県 所属団体 --
分類 自治体

清流千種川が瀬戸内海に注ぎ込む河口域にできた赤穂。「赤穂浪士」や「塩づくり」の歴史や瀬戸内海国立公園に位置する自然豊かな地域。

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